江戸の味

初    物  江戸っ子にとって初物を人より早く食べる、ということに大変意義を感じていた。詰まらない見栄なのだが、彼らは真剣だった。
 初 か つ を  初物のなかでも、最も高価なのが初かつを。シャレでは済まされない高値だった。
米の消費量 現代はかつてに比べると驚くほど米を食べなくなってきている。江戸時代、どれだけ人々はお米を食べたのであろうか。 
 酒のはなし  江戸時代、花のお江戸で酒といえば、もちろん日本酒に決まっていた。酒好きに時代は関係ないようで・・・。
 豆腐のはなし  豆腐は息の長い食材である。そして、いまなお色々な新アレンジが登場している。それだけシンプルで、日本人の口に合うのだろう。
 物相飯  物相飯(もっそうめし)とはいわゆる「臭い飯」、つまり牢獄で供されたご飯のことである。しかし、言葉の意味を調べると、それだけではない。
   
   
   
   

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初物


 江戸っ子の初物好きは高名である。
 「目に青葉 山ほとどきす初かつお」
 の句で初鰹が有名だが、江戸っ子は、鰹にとどまらず、いろいろな初物に高値をつけて、見栄を張った。
 たとえば、江戸の初期である慶長十九年(1614年)には、三浦浄心という人に言わせると、初鮭なども、「三十両、いや五十両に値する」と大げさなことを言っている。
 1668年には、幕府も商人の暴利を防ぐ意味と、庶民が奢侈に流れないようにする意味で、魚、野菜などの初売りの時期を定めた。
 「さけ八月より、あんこう十一月より、生たら十一月より、まて十一月より、しらうを十二月より」
 最初はある程度の効果を得ていたようだが、次第に守られなくなり、形骸化していった。
 江戸時代は封建社会で独裁者による恐怖政治が行われていたかのように思っている人も多いが、幕府の命も、意外なくらい人々は守っていなかったようなきらいがある。このような禁止令というのは、いろいろな形で庶民に「あれはするな、これもするな」と命令しているのであり、しばしば制定されたが、その効果は薄かったのが現実である。この件に関しては、寛政の改革に触れるにあたって、また述べることにする。
 さて、初鰹。
 江戸っ子が初鰹を好んだのは、鰹に「勝魚」という当て字をはめ込んだのと、初鰹を食べると寿命が七十五日延びるという迷信があったからである。

江戸食の履歴書 平野雅章 (小学館文庫)

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初かつを



 初鰹を食べると75日寿命が延びると書いた。
 これには、いわれがある。
 死刑囚は、処刑の前日に何でも望む物を食べることが許されたが、ある冬に季節はずれのものを所望した囚人がいた。その者は、初物が出回るまで処刑も延期されたという。
 このことと、初鰹がミックスされ、75日延命という話ができてきたのである。
 江戸中期の文化人太田南畝(蜀山人)は、安永十年に、「はつ鰹」という小咄集を表している。
 その冒頭に、
 「三浦三崎の初松魚(かつお)ふる背はいやよ、新計(ばかり)、道中急ぐ程谷(ほどがや)に、川さき品川打越て今日江戸入のはつ声は、まだ新しきはなしの親玉、アアつがもねえ」 
と書いている。
 (つがもねえ=たわいもない)
 三浦三崎は、言うまでもなく、神奈川県三浦三崎のことで、この辺りで獲れたかつおが良質とされた。特に初かつおともなると、早船でとり急ぎ江戸に入った。
 「はつ鰹」の序文で蜀山人が言いたかったのは、今までの小咄は新鮮さがない、俺の書くものは、初鰹のように新鮮だ、ということである。
 たいした自信だが、その内容はどうであろうか。
 その中にある「鰹」という小咄を引用してみる。
 ほととぎすの初音を聞いたの聞かぬの、咄の中へ出て
 「おらあ、きのふ鰹のはつねを聞いた」
 「とほおもねえ事をいふもんだ、何が鰹が鳴くもんだ」
 「それでも、きのふの初値が二〆(かん)五百」
 
 初音と初値を掛けた小咄である。
 いかがであろうか。
 江戸の小咄というのは、概してこのようなものである。
 鰹に関する小咄としては、同時期の安永八年に出版された「金財布」の中にある「精進日」という咄の方が面白い。
 精進日とは、先祖の命日で、この日には生ものは食べては行けないことになっていた。
 友達の所から初鰹をもらひ、ふっと思い出した処が精進日、喰わねエモごふ腹と、かのかつをを持って、持仏の障子を押し開き
 「もし親父様、この鰹を貰ひましたが折折おまへの御命日ゆへ、たべられませぬ、それともたべても大事ござりますせば、必ずご返事には及びませぬ」
 
 死人に口なし、仏にも口はない。
 うまく考えたものである。
 このように、江戸っ子から愛された鰹であるが、食べ方としては、今のように醤油をつけて食したわけではなかった。
 醤油は江戸中期から江戸にも広まっていくが、高価なもので、庶民としては、刺身には味噌をつけたり、酢辛子で食べたりした。ショウガや辛子、蓼(たで)といったものを薬味にして、辛子味噌などで食べたわけである。
 今ではあまり聞かない煎酒というものもある。
 これは酒に、鰹節、梅干し、塩などを加えて煮詰めたものである。
 関西では、鯵のたたきにニンニクをつけて食べるところがあるが、時、場所変われば、刺身の食べ方も千差万別である。
 なお、蛇足であるが、江戸小咄が出たついでに、少し落としておく。
 アムステルダムオリンピックの水泳、100m自由形で銅メダルを獲得した高石勝男選手は大人気で、彼が泳ぐ時は「かつおコール」が起きたという。これは、もちろん、高石選手の活躍にもよるが、「かつお」という意味がイタリア語で、男性器を意味しているからだった。ちなみに、いそのかつお、もイタリアへ行くとへんてこりんなことになってしまう・・・。
 
 「江戸小咄集」  東洋文庫  宮尾しげを編
 「大江戸風俗往来」 実業之日本社 久染健夫監修

 

米の消費量

日本人の米の一人当たりの年間消費量は60kgを割ったそうである。そんなに少ないかなあと自分の家の場合を計算してみたら、確かに少なかった。一日に換算して170gしかない。一合強の計算となる。そう考えると現代人の米の消費量は驚くほど少なくなっている。

江戸時代はどうだっただろう?

牢獄の例を見てみる。

囚人ひとりにつき玄米搗五合で、白米にすると一割減の四号五勺であった。これを朝夕の二度に分け、一回に二合二勺五才、盛立ての目方正味八十五匁あたりであった。(中略)副食は味噌汁と糠漬の大根であった。

とある。

囚人でさえこんなに食べていた。

このご飯はおおきな丼に盛られ、モッソウ飯と呼ばれた。「臭い飯」の語源である。

白石一郎の小説に「元禄武士道」という一風変わった短編小説がある。

そこに大食いの武士が登場する。

本人はそれを(大食)を恥じて、人前では決して暴食をしなかったが、一度に七升の飯を喰うという噂であった。真実は、一日に三升の飯を何度にも分けて喰う程度だったが、なまじ本人が隠すので、大食の噂は、かえって誇張されてしまったのである。

三升だって信じられないくらいの量である。主人公星野小五郎は、ばかばかしいとも思える藩同士の意地の張り合いに巻き込まれ、藩命を受けて、一尺あまりの堂々たる鯛27匹、15杯の椀、二升の酒を飲む。

本当にこんなに食べられるものなのだろうか?

振り返って、現代を見てみると、小林尊という人物がいる。

フードファイターと呼ばれる「大食い」の第一人者である。

彼は先日、アメリカで行われたホットドッグ早食い大会で5度目の優勝を自己新記録で達成している。

アメリカの早食いはあくまでも早食いで大食い競争ではないのだが、彼は12分間で53.5本のホットドッグを食べている。回転寿司でもごくわずかな時間に50皿もぺろっと平らげてしまう。時間があったら一体、どれくらい食べられるのか想像もつかない。それでいて、痩躯だから不思議だ。人間は可能性の動物だとつくづく思う。

さて、牢屋ですらそんなに食べられていた米。

一般の人はどれだけ食べていただろう。

1840年の長州藩のものであるが、主食だけで1664キロカロリー摂っていたと記録されている。明治3年の飛騨地区の記録も残っているが似たようなものだ。

カロリーから計算してみると、三合弱。

囚人は米しか食べられなかったので四合半の米を食べていたことを考えると、米以外のものも口にしていた一般人の場合、きわめて納得できる数字である。

ここ100年で日本人の米の消費量は3分の1になったわけであるが、肥満、糖尿病の人のパーセンテージは激増した。満腹度の割りにはローカロリーな米のことを考えると、当然の結論のような気もしている。

精米一合は約150グラム

  精米一升は約1.5キログラム

  米一合は330グラムのご飯になります。  (=590カロリー)

  米一升は3.3キログラムのご飯になります。

  米はご飯にすると重量で2.2倍、目方(容積)で2.5倍になります。

  弁当では少なめでご飯150グラム(生米68グラム)多めでご飯250グラム(米114グラム)

http://www.okishoku.co.jp/siryo.html  沖縄食料HP

人口から読む日本の歴史 講談社学術文庫 亀頭宏

江戸町奉行所辞典 柏書房 笹間良彦

幽霊船 新潮文庫 白石一郎

酒のはなし

「下らない」という言葉がある。
江戸時代は京都が首都であったから、関東から関西へ行くのが上りで、関西から関東へ行くのが下りであった。
この時、江戸は大消費地にはなってはいたが、高級品はまだ関東では作れず、関西から来る「下りもの」は高級品であった。
関西から送られてこないものは、当然「下りもの」ではなく、「下らないもの」であった。
これが「下らない」の語源である。
下るもの、下らないもの、と二分化され特にブランドイメージが強力だったもののひとつに酒(日本酒)がある。
江戸時代は貧しかったようなイメージがあるが、実際のところ元禄時代(17世紀末〜18世紀初)には、江戸の人々は年間ひとりあたり54リットルの酒を飲んでいたという。今の日本人の年間消費量は70リットルだそうで、現代は飲んでいるお酒がビールあり、ウイスキーありと、お酒の度数が違うので単純比較はできないが、元禄の江戸庶民は現代人と比較しても遜色ない量のアルコールを飲んでいたことになる。
話が横道にそれたが、高級酒の製造元は関西に独占されていた。
関西でも初期の生産の中心地は摂津の伊丹や池田であったが、のちには灘五郷と呼ばれる兵庫県西宮から神戸へかけての地区へ移行していく。
この背景には阪神タイガース応援歌で有名になった六甲おろしと呼ばれる寒気と、夙川を中心とした川の流れを利用した24時間利用可能な水力による搗米のイノベーションがあった。
ところで、当時のお酒はいくらくらいだったのだろう?
淡野史良氏は著書の中で志賀理斎の「三省録」を引用して、慶安期(1648〜1652)の酒の価格を表している。
それによると、各1升で、

関東並酒    二十文(600円)
関東上酒    四二文(1260円)
大坂上酒    六四文(1920円)
西宮上酒    七二文(2160円)
伊丹西宮上酒 八十文(2400円)
池田極上酒  百文 (3000円)

となっている。

醤油が銚子物で六十文(1800円)、そばが十六文(480円)としている。
淡野史良氏は一文=30円としてレート換算している。
この手の物価計算の整合性としてはよくかけそば一杯の価格が引き合いに出されるが、今風に言うとラーメンの価格と言った方が通りがいいかも知れない。
すなわち、この例でいうと、ラーメン一杯=480円が妥当かどうかである。
私は妥当だと思う。
すると、潤沢な消費量を前にして、米文化であった江戸時代の日本酒は意外なほど安かったのかも知れない。
1.8L 600円とはどんな酒かと思うけれど。それにしても酒のなかでも下り物とそうでない酒の価格差は凄い。
それだけ、ブランド品は儲かったということにもなるのだろう。実際、灘の造り酒屋は今でも大金持ちである。

現代では、どうか。
インターネットで調べてみると、売れ筋の久保田が万寿で9380円、千寿が2880円。関西だと灘の黒松白鹿特別本醸造が2380円、剣菱で3055円。価格差はないようにも見えるが、実際には楽天の売れ筋ランキングベスト30位内にかつてのブランド灘の酒の名前は一つも入っていない。白鹿の中にも高価格のものは存在するが、価格的には逆転してしまったと見るのが妥当だろう。

かつてはブランド品であった関西の日本酒メーカーが、新潟あたりの日本酒にブランド力を奪われ、今は大衆酒を中心に造っており、そのブランド品である関西以外の酒米に兵庫県産の山田錦が多く使われているというのはアイロニーには違いない。

最後に、時代劇の間違い指摘をひとつ。
よく居酒屋などで客が現代の徳利を使って酒を飲んでいるが、あれは間違い。
このころは、ちろり、という錫でできた酒器を使っていた。
今でもおでんの屋台などに行くとたまに見かける容器である。
縄暖簾(居酒屋)では、惣菜が酒一合の値段より安かった。現代でも生ビールは料理より高いケースが多いのでそれは同じかもしれない。
その点でも江戸時代は、非常に現代と近似している気がしてならない。

大江戸番付づくし 石川英輔 実業之日本社
町屋と町人の暮らし 平井聖 学研
数字で読むおもしろ日本史 淡野史良 日本文芸社
日本酒造組合中央会 http://www.japansake.or.jp/sake/
ちろり http://allabout.co.jp/gourmet/sake/closeup/CU20041210A/

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豆腐のはなし

愛知県豆腐商工業協会のHPによると、豆腐の歴史は中国で初めて製造されたのが紀元前2世紀。日本には遣唐使により伝えられ、文献に登場するのは1183年の春日大社の神主の日記だと言う。しかし、永らくは高級食としての位置づけで、江戸中期までは庶民はなかなか口にできなかった。それが、江戸中期になると一大グルメブームが起こり、田沼意次のバブル期天明2年(1782年)には料理方法を書いたグルメ本である「豆腐百珍」が出版され、豆腐人気に火がつく(この「豆腐百珍」は現在でも新潮社刊の新書で入手可能)。この本はなかなか優れた本で現代でも通用するような豆腐料理が数多く紹介されている。「ふわふわ豆腐」「ぶっかけうどん豆腐」「雲かけ豆腐」などのネーミングも優れていて「どんなものだろう」と想像力をかき立てられる料理がずらっと並ぶ。特徴的なのは調理方法。現代だったら、変わり奴のような冷や奴にトッピングを加える料理も多いようだが、百珍では、煮るが55品、焼くが20品、揚げるが16品、生が2品、その他が7品という構成になっており、加熱加工が中心となっている。生ものを尊ぶ江戸の町人にあって、豆腐というのが極めて上品なものだったことが伺える。当時の大村益次郎も大好きだったという豆腐。暖かくなってきた最近、奴で一杯。今夜あたりいかがだろうか?

おまけ
おまけに酒の肴に超簡単、味噌豆腐の作り方。
@豆腐をキッチンペーパーで包み電子レンジで2分加熱。
Aペーパーを代え、よく水気を切る。
B全体に味噌を塗りつけ、ラップで包み、密閉容器に入れ、冷蔵庫に保管。
C2〜3週間すると、あら不思議。おいしい味噌豆腐のできあがり。見た目はあまりよくないが酒の肴に最高です。

日本豆腐協会 http://www.tofu-as.jp/index.html
愛知県豆腐商工業協会 http://www.aiweb.or.jp/otoufu/
豆腐百珍の全て http://www.tofu-ya.com/t-hyakuchin/h-subete.htm
福田浩、杉本伸子、松藤庄平 『豆腐百珍』(新潮社、1998年)

物相飯

俗に壁の向こう側での食事を「臭い飯」という。
また、盛相飯《もっそうめし》ともいう。
これは時代小説好きな人なら常識といってもよい事柄だが、今日、樋口清之さんの「日本人の歴史」を読んでいて、とても驚いた。

盛相というのは、もともとは禅会席の食べ方をさした言葉であるが、時代が下ると、江戸の牢屋でも、盛相飯を出すようになった。

盛相というのは、言葉通り、型に入れて一気に抜いて、そのまま板に乗せて出すものである。旗が立っているお子様ランチなどは、まさに盛相である。幕の内弁当なども盛相飯の一種になるのだろうか。

だが、囚人に対して出された盛相飯は丼に入っていた。
丼に入れてから板に盛り付けるのは手間になるからだ。

盛相=型に入れて抜いた、と考えると、チャーハンも盛相飯のようだし、インド料理屋さんなどでライスを頼むときっちり型取られたライスが出ることもある。

そう考えると、盛相とは調理方法の一種であると言える。
必ずしも、盛相飯=低級なもの、という考えは間違いなのであろう。

日本人の歴史(2)食物 樋口清之 講談社

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